[青盛 透]
京都をはじめとして、滋賀・三重・奈良等の近畿地方をフィールドに、長年、民俗芸能や祭礼の調査と研究に携わってこられた青盛透先生。奈良県の祭りと芸能を広く知るため、まずは先生に奈良県の特徴について質問させていただきました。今回は特に歴史的な視点から、それぞれの行事の本来の意味や変遷について教えていただいています。
奈良県の祭りと芸能
まずは奈良の祭りや民俗芸能の特徴を聞いてもいいですか。
近畿地方のなかでも、奈良は特に歴史資料がたくさん残っているところです。時間軸の上に置いて、いつの時代のどの部分にあたるのかを考えると、現在の祭りや芸能のなかに古い時代のパーツを見ることができる。それがものすごく特徴的なところですね。本来の姿と全く同じなんていう行事は、まずありえない。古い伝承というのは、必ず新しい伝承に上書きされていくものだから。「上書きされた中の種は、なんだったのか」という見方をしないと、奈良の祭りや芸能のもとの意味は分からないんです。
春の祭り
季節ごとでいうと、春の祭りの特徴というのは。
弓引き、鬼走り、裸踊り、綱掛け。その多くは国家安穏を祈る正月の修正会(脚注①)をルーツに持つものです。もとは中央の大きな寺院の行事だったものが民間に広まって、村のお堂なんかでやるときはオコナイ(脚注②)と呼ばれている。
高野山麓の「弓手原のオコナイ」や「北今西のオコナイ」がありますね。
修正会やオコナイでは、注連縄で結界をした清浄な祭場を作ってお祭りをするんだけど、綱掛けとか勧請縄とかいわれている年頭行事のもとだろうね。
桜井市の「江包・大西の御綱」 は川の上に綱を掛け渡すみたいです。
川っていうのは村境といっしょでそこから悪い霊が入ってくるから、それを防ぐためのまじないだね。それとオコナイには乱声といって牛王杖でお堂の床を叩いたりすることで悪霊を退散させるわけだけども、これは土地の精霊の力を呼び起こすという呪術でもあったんだね。
「陀々堂の鬼はしり」でも阿弥陀さんの後の壁を棒で叩きますよね。修正会では鬼が登場することが多いですね。
陀々堂だけじゃなく、長谷寺や法隆寺の修二会なんかでも鬼が出てくるでしょ。これは、修正会や修二会の終夜(結願)でやっていた鬼や毘沙門天が登場する行事が、今の民俗に入ってきている例です。
鬼といえば節分がありますが
節分のルーツは、追儺(脚注③)という旧暦12月30日に行われる宮中の年中行事です。追儺や節分に鬼が登場するのは、室町時代に入ってからなのでわりと新しいこと。これは修正会をルーツにもつ先ほどの鬼とは、ちょっと性質が違うものなんです。
なかなか複雑ですね。
それと、修正会に伴ってよく出てくるのが、延年という行事。延年はいろんな機会に催される行事で、分かりやすく言えば、お寺でやるお坊さんの宴会みたいなものなんだけど(笑)
ふふふ。分かりやすいです。
延年は修正会とは別のものなんだけど。修正会が終わった後に延年を開いて、歌を歌ったり、踊りをしたり、仮装の出し物をやったわけです。ここから猿楽や田楽、風流というような芸能が発達してゆくんですね。オンダ(脚注④)は修正会か延年起源か謎が多いけど、東海地方に多い「田遊び」は鎌倉時代にここから出てきたといわれています。中世の吉野山とか多武峰では修正会の延年にオンダのあったことがわかっているからね。
オンダで牛王宝印(脚注⑤)が配られることって多いですね。いつ頃からあるんですか。
牛王宝印というのは朱印が押してある厄除けの護符で、平安時代くらいから記録に出てきます。修正会で祈祷されたものが参拝者に配られる。悪いものを払う効力があるといって、家の戸口に貼ったり、苗代の水口に立てておいたりします。
話は変わりますが、トンド(脚注⑥)はどのように捉えたらいいですか。
ああ、左義長ね。起源ははっきり分からないけれど、鎌倉時代には行われていたらしい。その年の吉凶を占う宮中行事であったり、民俗学では小正月に山へ正月の神様を返す行事であると説明することが多いよね。何はともあれ、燃やした時の竹のはぜる音が重要な要素なんです。室町時代の日記にも左義長は「ほこらかす」って書いてある。大きな音や煙の匂いには、魔除けとしての機能があるから。
中国でも春節のときなんかに爆竹を鳴らしますよね。
そうだね。日本独自というよりは大陸的な要素があるのかもしれないね。
夏の祭り
続いて、夏のお話へ。奈良では、初夏の5月から6月に野神(脚注⑦)さんのお祭りをするところが多いですよね。
「地黄のススツケ行事」なんかがそうだよね。滋賀県でもよくみられる行事だけど、奈良県は30ヵ所くらいはあるんじゃないかな。奈良盆地周辺では、藁で作られた蛇(ジャ)を子どもたちが担いで集落をぐるぐると回ったりもする。これは田植え前にその年の豊作を願う行事です。蛇は龍と同じ水神で、農業の神様と考えられています。
夏の祭りを語るうえでのキーワードはなんですか。
基本は御霊会(脚注⑧)ですね。夏の盛りは疱瘡や天然痘など伝染病が蔓延する時期ですから、死んだ人の魂に由来する疫病や怨霊を鎮める儀式が必要だった。
御霊会というと、祇園祭ですね。
まず連想するのはやっぱりそれですね。でも各村々に御霊会があったという記録は平安時代の『今昔物語』にも出てくる。農具を持って行列したり、太鼓を打ち鳴らして回ったり、京都で行われる風流と根本は同じなんです。
風流をすることで、悪いものを追い出せるという意識があったのですか。
風流っていうのは着飾ったり、音楽を演奏したりしながら賑やかにパレードをするわけで。怒っている神様を喜ばせて、なだめようとするのがもとの意図だろうね。ただ庶民は「疫病を村から送り出す」という、もっと具体的なイメージを持っていた。例えばお祭りで使った依代の御幣を川に流したり破り捨てたり、いわゆる災厄がそこからなくなったことを表す演出が重要だったんです。
お盆前後に行われる六斎念仏(脚注⑨)は、京都と比べると非常にシンプルですよね。
奈良県では人に見せるために芸能化する前の素朴な姿を残しているとも言えるかも。ただし本来はもっとリズミカルなもので、いかに緩急をつけて鉦を打ち鳴らすかということが楽しみだったんです。
御所市の「東佐味の六斎念仏」なんかは、演目によってはリズミカルなものもありますね。
「シンコロ」というんだけどね。一般には「シコロ」と言って。コロコロと転がすような鉦の音が見せ場だったんじゃないかな。基本的に祭りとか民俗芸能というのは、ベースに遊び心っていうのがある。昔の人は今みたいに個人で自由には遊べなかったから、共同体の行事のなかでいかに楽しむかが重要だった。
供養が目的の宗教行事が、娯楽を含む感覚に変わったということですか。
そう。上手に見せたいという意思が働くほど、リズミカルに鉦を打ち鳴らしたり、体を大きく動かしたりして見せ場を増やそうとする。これはまさに遊び心の展開ですよね。ただ時代とともに儀礼化が進むにつれて、踊りやリズムのメリハリが少しずつ失われていくことが多いです。
夏と言えば日照り。次に雨乞いのお話を少し伺いたいのですが。
雨乞いというと、民俗芸能では風流踊り、つまり太鼓踊りが代表的です。願立ての順序としては、蝋燭をあげたり灯籠を作ったり。他にも池の水替えをするとか。最初は簡単なものから始めて行って、太鼓踊りのように大人数で行うものやお金のかかるものは最後にもってくる。結局は神様に対して交渉するわけだから、いきなりエースを出すとまずいでしょ。
ふふふ。分かりやすいです。「吐山の太鼓踊り」は雨乞いの目的がありますが、「大柳生の太鼓踊り」や「篠原おどり」は少し性質が違いますよね。
大柳生の場合は、神社の氏子によって伝えられてきた踊りです。「廻り明神」をお祀りするその年の当屋を祝うため、屋敷の庭先で8月17日に奉納します。時期的には月遅れのお盆の時期ですね。
「篠原おどり」はどうですか。
篠原の場合は今は神事として奉納される踊りだけど、ちょっと成り立ちが違うんです。宮座(脚注⑩)の神事や村をあげての雨乞いなどの行事とは違って、あくまで自由参加でやるということが前提にある。願い事を叶えるためというよりは、遊び心の要素を強く持って発展した芸能ですね。
「十津川の大踊」もよく似たイメージですか。
類似性はありますね。篠原や十津川といった奈良県南部の太鼓踊りは、盆踊りと関わりがあるものが多いんです。ゆったりとしたテンポや優雅で古風な振り付けが特徴で、現代の盆踊りとはまた趣きが違うんだけどね。
盆踊りは私たちにも馴染み深い行事ですが、どのような意味を持ちますか。
8月15日や16日に行うことから、本来は祖先の精霊を慰めて再び送り返すためのものでしょう。御霊会と習合したという説もあります。それがだんだん流行の最先端の踊りも増やして、村の共同の娯楽になっていったんです。最盛期は昭和30年代頃。それ以降は村落の維持が難しくなって、状況もだいぶ変わっていきます。
秋の祭り
奈良には秋祭りが多いですが、これは収穫祭と考えてよいですか。
収穫祭として行うものが多いのは事実だけれども、単純にはいえない。ユネスコ無形文化遺産にも登録されている上深川の「題目立」は、本来は遷宮祭の芸能だったけど、江戸時代は村の成人の通過儀礼だったからね。
なるほど。秋祭りの芸能は、宮座の神事として行われるものが多いですね。
その前にまず、「宮座とは何か」という話をしないと。座というのは同じ年齢層の人が集まる定員制の集団のことです。
どんな人たちが加入するのですか。
神事について村の意見をまとめる長老たちです。本来は若者の座があって、その上に中老の座があって、年齢別階層的な座の集団がいくつもあった。それらを1つにすると、村座になって残るというイメージですね。
奈良では、宮座に加入できるのは特定の家のみという場合が昔は多かったですよね。
そうね。これは歴史的にも古い形だと思います。県内でそういうものが一番色濃く残っているのは、奈良市東部地域にあたる東山中ですね。
邑地や狭川、柳生、山添村の東山地区など東山中の秋祭りで奉納される芸能には、どことなく形式的な雰囲気がありますよね。芸能だけど、行事化したものが多い気がします。
恐らく、「春日若宮おん祭」の形式をまねたからでしょう。京都の南山城を含むこの周辺一帯は、春日信仰を支えた興福寺の荘園だったから、おん祭りの影響を強く受けているんです。
そのおん祭の特徴とは何ですか。
神事はともかく、一般人が見るとこならば、やはりお渡り(渡御)でしょうか。他にも田楽や舞楽・細男・翁舞(脚注⑪)・相撲など、春日で行われていたお渡りや芸能が模倣され、各地域で再構成されていったと考えられています。特に東山中では田楽・相撲・翁舞が基本的なセットですね。
田楽を奉納するとき、手にたくさんの木の棒を紐で繋げたものを持っていますよね。これは何ですか。
ビンザサラ(編木)という楽器です。獅子舞など鼻高面(俗にいう天狗)がよく使っているスリザサラとは別の楽器です。田楽の具体的な内容って、実はほとんど史料に残っていないんです。本来の姿というのは、現在行われている形から推測するしかない。その時に手がかりになるのが、このビンザサラなんです。
南京玉すだれ、みたいな道具ですね。重要なアイテムなんですね。
そもそもビンザサラがなくても、田楽は成り立つんです。口承の過程でだんだんいろんな要素が省略されていったりするのだけど、そのなかでも「田楽にはこの楽器が必要だ」と意識的に残してきたわけです。奈良のお祭りを見ていると、「簡略化しても、これだけは捨てきれなかった」というアイテムや要素をしばしば目にすることができるんです。
翁舞には、どういった意味合いがあるのですか。
翁舞の本質は、寿ぐということ。「喜びの言葉を述べる」という意味で、翁は長寿の祈りを込めて舞うんです。
田楽や翁舞ですが、昔から村の人たちで演じてきたのですか。
田楽の場合、平安後期には「田楽法師」という専門家たちが演じました。お寺ごとに芸能に奉仕する団体があったという記録もあるんですよ。ただし、そういう人たちが、わざわざ東山中まで来てくれた可能性は低いけれどね。翁舞については、平安時代から鎌倉時代にかけては呪師とよばれる役者が、修正会にまつわる芸能を担っていました。その呪師が抜けて鎌倉末から呪師と一組であった猿楽が翁を演じたと考えられます。近世に入っても専門家を呼ぶ慣習が残っていたところもありますが、やがて村落自らが奉納する形へ変わっていったようです。
少し話が前後しますが、宇陀地域の秋祭りには獅子舞が登場しますよね。
そうだね。歴史的に見ると、田楽・獅子舞・陵王(鼻高面)の3つはセットで登場することが多く、お渡りの先頭で露払いや悪魔祓いの役割をしています。平安末期の『年中行事絵巻』にも描かれていますし、一番古い芸能である伎楽にも最初に登場します。村祭りのお渡り一行に加わっている獅子は、本来あまり踊ったりすることはないんですよ。
ええ。そうなんですか。
曲芸や芸能を見せる獅子舞は時代的には新しいですね。神賑わいというのかな、神事とは別に参拝者を楽しませるため後に祭りに加わったものだと思います。曽爾や御杖のように獅子舞が伝わる地域にも古い獅子頭が残ってますけど、今の獅子頭とは別物で、被って踊れるようなものじゃないですね。他の地方でも、お渡りに登場する獅子は、ただその場をぐるぐる走り回るだけ。祭りの場を清める役割を果たしているんです。
芸能とは少し違うのですが、オカリヤについても教えていただけますか。
仮屋という言葉は、中世から日常的に使われていたんです。例えば、宮廷の庭で舞楽を奉納するときのするときの控え所なんかをそう呼んでいた。あくまで仮設だけど、決して雨ざらしにはしない。つまり「屋根をおかなくてはいけない」というところが基本的な発想だろうね。
「櫟原のオハキツキ」や「下市町新住のオカリヤ」はどのようなものなんですか。
氏神さんの秋祭の前に、神の分霊を迎えるために立てるんです。いわゆる神の依代というものですね。オハケとも言うんだけれど、もとは頭屋の屋敷や戸口に立てる竹の先に幣などをつけたもののことで、「潔斎して神様をお祀りしていますよ」という目印ですね。
冬の祭り
奈良県には、「高田のいのこの暴れまつり」などイノコ行事も多いですよね。
「旧暦10月の亥の日に亥の子餅を食べる」という風習は、平安時代の貴族たちの間でもあったようです。ただかつて宮廷で行われていた習わしと現在民間に伝わる行事が同じだという保証はどこにもないんです。資料が残っていないので。そういう意味で、民間の中で広がって定着した本当に民俗的な行事だと言えますね。
奈良の冬の風物詩といえば、先にも出た「春日若宮おん祭」ですよね。
若宮をお迎えする「遷幸の儀」の12月17日の午前0時から、12月18日の午前0時にお還しする「還幸の儀」まで、24時間の中で様々な祭祀が行われるんです。
やはりお渡りがポイントですか。
そうだね。「お渡り」というのは、基本的に「わたりもの」とか「わたりもん」と言うんです。ひとつのグループを表す「もの」という言葉が示すように、渡っている行列を指すんですね。関西では、祭礼の基本はA地点からB地点に移動することというパターンが多いですね。
どこからどこへ向かうのですか。
基本は、頭屋さんの自宅から神社まで。宮座行事をはじめ、多くの場合が1年間頭屋さんで守っていた分霊を再び神社へ戻すといったイメージです。お渡りには御霊会や虫送りのように、穢れを村境へ送り出すという場合もあるけれどね。
おん祭りは長い歴史がありますが、2015年はなんと880回目だったそうですね。
1度も途切れることなく続いてるんですから驚きますよね。猿楽や雅楽、神楽や舞楽など。お旅所で奉納されるさまざまな演目は、中世以前から続く日本古来の芸能の姿を垣間見せてくれるものです。
脚注
- 脚注① 修正会(戻る)
- 仏教寺院で行われる年始めの法会。前年の罪や過ちを懺悔し、新年の国家安泰や五穀豊穣などを祈願する。旧暦2月に行われるものは修二会と呼ばれ、東大寺修二会のなかで行われる「お水取り」は、奈良の春を告げる行事として知られる。延年平安時代から室町末期にかけて諸大寺で行われた芸能の催し。法会の後や貴族来訪の際の余興などとして、僧侶により祝福を名分とした様々な芸能が披露された。後に修正会における芸能として採り入れられた例も多い。
- 脚注② オコナイ(戻る)
- 新年から春の初めにかけて、村の寺堂や神社で行う、五穀豊穣を祈る祭り。近畿地方を中心に、西日本各地に広く分布する。行事の中心は、牛王宝印(ごおうほういん)の護符を授けることで、巨大な鏡餅や掛餅・造花による荘厳(ショウゴン)、乱声(ランジョウ)、結鎮(ケイチン・ ケッチン)などを特徴とする。国家の安寧と鎮護を祈願する修正会・修二会が民間に受容されたものと考えられているが、地域の民俗を取り込みながら独自に発展した。
- 脚注③ 追儺(戻る)
- 疫鬼を追い払うため習俗で、「鬼やらい」ともいう。平安時代初期から行われており、かつては旧暦12月30日に宮中で行われる年中行事であった。現在の節分の起源になった行事。
- 脚注④ オンダ(御田)(戻る)
- 年頭に稲作の過程を模擬的に演じ、その年の豊作を祈願する予祝行事。広くは「田遊び」に分類されているが、近畿ではもっぱらオンダ(御田)と呼ばれ、御田植の略称と考えられる。他にも御田植祭・春鍬・春田打ちなどと称される。田植までの模擬で終わるのが基本で、奈良県では奈良盆地を中心に60ヵ所近くの分布がある。定まった台詞や歌謡によって構成されるものが代表的であるが、即興的な台詞を交えた模擬のみの行事も多い。
- 脚注⑤ 牛王宝印(戻る)
- 「牛玉宝印」とも書く。略して「牛玉」ともいう。社寺から出される厄除けの強い霊力をもつ護符で、牛王札という。社寺名を冠して「…牛玉宝印」と書き、本尊などの種子梵字を押して神仏を勧請したことを表わす。修正会や修二会などで配られることが多く、災難よけに門口に貼ったり、田の水口祭でも棒の先に牛王札を挟んで立てる。
- 脚注⑥ トンド(戻る)
- 左義長。小正月に行われる火祭りの行事。田圃の一角に竹や柴を束ね、ここに正月の松飾りや注連縄を持ち寄って焼く。書初めを焼いて高く炎が舞うと、字が上達すると言われる。
- 脚注⑦ 野神(戻る)
- 稲作守護神の一つ。奈良盆地では、5月5日の端午の節供に併せて行われることも多い。藁で作られた蛇(ジャ)や農具の模型を供えて、その年の豊作を祈願する。
- 脚注⑧ 御霊会(戻る)
- 平安時代以降、疫病や死者の霊を鎮めるために行われた儀礼。疫病が多発する旧暦の5月から8月にかけて行われることが多く、御霊祭とも呼ばれる。
- 脚注⑨ 六斎念仏(戻る)
- もとは六斎の日(毎月14・15・23・29・30日)に行われたとされるが、現在は主に盂蘭盆や葬式の行事として行われる。鉦や太鼓でリズムをとりながら、六字名号(「南無阿弥陀仏」)に節を付けて繰り返す念仏の詠唱を基本とする。奈良県では大正期には60ヵ所以上の伝承があったが、現在は数ヵ所にのみ残っている。なお、京洛近郊の六斎念仏のように笛や獅子舞等も取り入れて独自に発展した娯楽要素の強い「芸能六斎」もある。
- 脚注⑩ 宮座(戻る)
- 村落の神社祭祀を行う特権的集団。氏子のなかの一定の人々が中心になり、組織する。室町中期以降から盛んになり、近畿地方を中心に西日本に多く見られる。宮座の中の一年神主を、頭屋(当屋)という。
- 脚注⑪ 翁舞(戻る)
- 古く鎌倉期から存在し、現在の能の原点ともされる。民俗芸能にも古い芸態が伝えられている。長寿の象徴である翁が、人々安寧を祈って舞うもので、村々の神事でも重要視されて演じられた。通例の能のような物語性はなく、現在でも正月や祝賀のときに演じる宗教儀式的な舞である。広義には翁舞だけではなく、古くは父尉・翁・三番猿楽(三番叟または三番三)、現行では千歳・翁・三番叟の三組一体の舞を指す。